10年経っても消えない傷跡がある。勝手に、すっかり昔のことのように思っていた自分がいる。いまだに、、、これからも、、、家に帰れない、戻れない人達もある。10年か、これだけの長い期間にどういう忍耐を強いられているのか。遠いところの話のように失念していた。自分の地域では被害を受けなかったから、それで安心しているのだ。情けない。
福島ミエルカプロジェクト
・マスクをしろ
・売り上げが40%減
・検査済みか確められる、、、
なんだかコロナ禍の状況と同じように思えた。
福島ミエルカプロジェクト:福島県二本松市で有機農業に取り組む菅野正寿さん
でも、これはコロナの話ではなくて、震災後の福島の農家の話しだ。被害を受けなかったトコロ、、、安全な場所から、、、の注意喚起の強要だ。確かに検査やマスクは必要だろうが、一律に被害地域の全域の住人におなじ扱いを強いるのは横暴な気がした。
人は、誰かを責めることで自分安全を確認し、安心できるのかもしれない。自分のごく近くの世界がとりあえず安全であればそれで良い。いや、むしろ自分の遠縁ではなにかヨロシクない出来事があったほうが、却って安全・安心を確信できるのではないか。そう穿った見方もしたくなる。
新しい世界・暮らし
人の在り方も変えないと、誰もが当事者で皆その現場にいるのだと実感するところか始めなくはと思った。また「昔のことだから」と、もう済んでしまったこととするのでなく。その時間の延長に自分たちはいる。
誰かを糾弾することでしか自らの安全を確認出来ないというのは、ちょっと情けない。そんな不十分な状況はちっとも安全でない。安心したつもりでいるだけだ。
今、ココは、たまたま運が良くて安全だと言うことは、ちっとも安全じゃないのだと、、、、四六時中意識するのはしんどいから、、、時折振り返って考えたい。
これが福島の全てではないだろう。浜通りの限られた地域のことだ。大部分では「復興」が進んでいる。福島全域が困難でしんどい生活を強いられている、、、という想像もまた無責任なことだ。ただ、詳しく知ろうとする姿勢はなくしたくない。