昭和の終焉とともに急速に寂れていった町。いつのまにか郊外のショッピングセンターが乱立して、町の外側の、田んぼしかなかった土地が、消費の中心となっていった。いつしかその周辺には住宅が出来て、同時に町からのバイパスが伸びていく。
こうした都市の衰退、、、都市と言うほどの町ではないのだが、、、地方都市はどんどん個性を失って、どこの駅で降りても同じような匂いと色彩が広がる。そんな『どこにでもあるどこか』は、つまりソコは、ドコうでもよい町ってことだ。と気付いたころには既に、故郷の光景を忘れてしまっている。
そこであらゆるモノが揃うセンターならなおさら。乱雑なものはどんどん取り壊されてい、新しい建物がボコボコできる。「あぁ、なんだかキレイでヲサレになっていく」駅前が整備され、町が新しくなっていく、郊外の車が無料で止められるゾーンに人が集うのは田舎の必然。人の住まいも当然郊外へと移動して、気付けば町中は無風地帯だった。
故郷と言い表すほど、生まれ故郷に愛着はない。むしろ気持ちは、都会へ!都会へ!!とうずいていた青春時代・・・いつのコトだよ!・・・でも結局は、田舎者にとって都会は厳しい環境だったから、夢がやぶれればすぐに尻尾をまいて逃げ帰ってしまう。田舎者には故郷が別にあるからできることだけど、たいがい皆、戻ってくる。
故郷は遠きにありて思うもの・・・同時に・・・都会も遠きにあって思うもの、だ。
そうしてしばらくたってから気付く。アレ?ココ?ドコ?だ、自分にとって、たったひとつの故郷だったはずなのに、それが『どこにでもあるどこか』になってることに気付いたとき、もはやどこにも行けなくなった自分を、一人、そこに見つける。
うらぶれることもできなくなって、ありゃこりゃドコだ?と迷子になってる。もうドコにもいけない。ドコへいっても同じ風景が広がるだけだ。
まぁ、今更、この町がどうなっても知ったことじゃないし、かといってドコにもいくつもりはない。行くところがナイ!富山だけのことじゃない。だって『どこにでもあるどこか』だから。